冬の幻
「……でさぁ〜、この前数学ん時に〜……」
机にだらしなく寝そべる豊満な胸が、もといその持ち主が気怠げに話している。内容に全く興味が湧かず適当な相槌を打っていると、「ちょっとクリスくん聞いてる〜?」という非難の声と同時にばるばるっと乳が揺れた。
「おー、聞いてるよー」俺は彼女の顔…の下方20cmの絶景から目を離さずに答える。冬だというのに大胆にボタンを開けたワイシャツの胸元は非常に眼ぷ……目に毒だ。
「全然聞いてないでしょ〜も〜!」子供のように駄々をこねられ、そこで初めて顔を上げた。高校生にしては濃いメイクを施した顔を不満げに歪ませた眼の前の女とは、つい1週間前から付き合い始めたばかりだ。
「クリスくんマジで無愛想だよね〜、つまんな〜い。せっかくイケメンなのに勿体無いんですけど」そう思うなら最初から付き合うなよと思いつつも、デカい胸とそこそこの顔につられて受け入れた自分も似たようなものか、と自嘲の溜息をつく。
「図書館でデケェ声出すなよ…あと俺たちいちおー受験生よ?お勉強しようぜ」
「とか言って教科書開いてすら無いじゃん、ウケる」
そう、今は高3の冬。同級生たちが必死こいて受験勉強に勤しんでいる中、特に志望校も無い俺はこうして勉強するふりを日課としていた。前に座っている彼女も似たようなものらしく、最近は常に俺にベタベタくっついてくる。……可愛いような迷惑なような。
それから、彼女がちょっかいを出してくるのをあしらいながら時間を潰していた。もちろん勉強など一切せず。
そして、そろそろ飽きてきたし帰るか、と思い始めた時。突然館内の電気が消え、一瞬にして視界を奪われた。辺りから悲鳴や困惑の声が上がる。
「いやあっ、何、こわぁい」さっきまで向かいに座っていたはずの彼女がいつの間にか俺の背にしがみついていた。
「ただの停電だろ、そんな騒ぐなって。すぐ復旧するだろ」
そう言いながら彼女の二の腕をさする。
しかしながら、一向に電気が点くことはなく、停電についてのアナウンスもない。何かがおかしいという雰囲気が図書館内に充満してきた。
「ねークリスくぅん、これマジのヤバいやつなんじゃない?」
「あぁ……そんな気ぃするわ。出よう、流石に玄関は開くだろ」
俺たちは荷物をまとめ、薄暗い館内を出口に向かって歩き始めた。
他の利用者たちも同じことを考えたのか、ぞろぞろと玄関へ向かっていた。
外の眩しい光が目に入った時、後ろの方からきゃあ、という子供の小さな悲鳴が聞こえてきた。
思わず立ち止まる。
「クリスくん?何してんの早く出よ?」
「あ、あぁ……」
しかし、どうしても子供のことが気に掛かる。ここで放って自分だけ逃げたら絶対に後悔する気がする。
「なぁ、お前だけ外出ろ。俺はちょっと中見てくるから」
「えっ、ちょっと!一人にしないでよ〜!」
「お前なら大丈夫だ、いざとなったら椅子で殴れ!」
そう言い残し、俺は図書館の奥に向かって走り出した。
正義感のようなものに突き動かされて走り出したはいいものの、子供の姿はどこにも見当たらなかった。児童書コーナーや絵本コーナーをくまなく探したものの、人の気配はない。
「……もっと奥か」
本棚の間を縫うように走る。そして
「いた……!」図鑑のコーナーの隅にその子はいた。髪の長さからして女の子か。こちらに背を向けてうずくまっている。
「大丈夫か、助けに来た」
そう声をかけると、女の子は顔を上げた。
「お兄さんだれ……?どうして暗くなったの?もうかいじゅういない?」
かいじゅう……?何かの影を見間違えたんだろうか。ともかくここから連れ出さなければ。
「ああ、大丈夫だ。だからここから出よう」
そう言って手を伸ばすと女の子は俺の手を取った。
「これ……」女の子はもう一方の手に持っていた本を見せてきた。『人体解剖図』……なんてもん読んでんだ。
「今は置いていこうな、今度借りようぜ」
女の子は素直に本を棚に戻した。
そして俺たちは出口に向かって歩きだした。
「お兄さん、お名前教えて」
「名前?今いるか?」
「知らない人には付いていくなって言われてるから。でもひじょーじたいなのは分かるから事後でもしょうがないと思って」
なんてマセ……大人びたガキだ。
「……俺は辻堂功利守。」
「ありがとうクリスお兄さん。ほんとはこじんじょーほーだからダメだけど、私の名前も教えてあげるね。私はナナ!伏見ナナだよ」
「……ナナちゃんね、ヨロシクネ」
「お兄さん、なんで図書館暗くなっちゃったか分かる?」
「俺にはわからないなあ」
「あのね、かいじゅうのせいだと思うの」
怪獣……さっきも言ってたな。
「怪獣なんかいないだろ」
「いたの!私見たの!おっきいハサミがあるバルタン星人みたいなやつ!こっちに向かってきたから私は隠れてたんだよ!」
必死に喋るナナを見ていると、本当に怪獣がいるんじゃないか……?という気にすらなってくる。
いやそんなはずは、と頭を振った次の瞬間、本棚が俺たちに向かって倒れてきた。
「危ないっ!」
咄嗟にナナに覆いかぶさる。鈍い痛みが腕と背中に走った。
「クリスお兄さん!?」
「大丈夫だ、ナナちゃんはケガねぇか?」
「だいじょうぶ、どこも痛くないよ……それよりクリスお兄さんが……!」
「俺のことは心配すんな。ちょっと待ってな、すぐどかすから」
痛みに耐えながら棚を立て直していると、どこからかブゥゥゥゥンと耳障りな虫の羽音のような音が聞こえてきた。
「……なんだこの音?」
「クリスお兄さん!来る!かいじゅうが来る!」
え、と思い振り向いた瞬間、そこに“ヤツ”はいた。
両手に大きなハサミを持ち、背中に大きな羽を持った巨大なザリガニのような怪物……。あまりに醜悪なその姿に俺は一瞬目眩を覚えた。
しかし、すぐにナナの存在を思い出し、拳を強く握り両足を踏ん張り、臨戦態勢をとった。
「クリスお兄さん!戦うなんて無茶だよ!もうダメだよ……」
「やってみなきゃわかんねぇだろ……!絶対にお前とここから出てやるからな!」
叫ぶやいなや、俺は怪物に殴りかかった。ゴンッと鈍い音がして俺の拳は命中した。しかし金属を殴ったかのような手応えで、相手も全くダメージを受けた様子はない。
「クソッ……ガハッ!?」
後ずさった一瞬の隙にハサミで体を殴打される。
吹き飛ばされ床に体をひどく打ち付けた。
「クリスお兄さんっ!」ナナが駆け寄ってくる。
「下がってろ!」
俺は再び立ち上がり、今度は奴の胴体めがけて回し蹴りをブチ込む。
「……ッ!」
相手は少しよろめいたものの、やはり手応えはない。そして再度俺に向かってハサミを振り下ろした。すんでのところで直撃は免れたものの、ハサミの先が顔を掠め血が噴き出した。
「お兄さんっ!もうやめよう!」
ナナが悲鳴をあげる。
「心配すんな!お前のことは絶対に俺が守る!」
叫ぶと同時に怪物へ飛びかかる。しかし俺の突進は虚しくも躱され、頭部をハサミでブン殴られた。
「っく、うぁぁ……」情けないうめき声が口をついて出た。視界がグラグラする。
そのままナナの元へ後ずさり、彼女に覆いかぶさるようにして俺は倒れた。
「お兄さん、クリスお兄さん!しっかりして!」
必死に俺の傷口を拭うナナ。
もう立つこともできない俺たちのもとへ、ギシギシと音を立てながら影が近づいてくるのを、遠くなる視界の端に捉えた。
「ごめん、な……ナナちゃん……守れなくて……」
そうして俺は意識を手放そうとした、次の瞬間。
「よくやったよ、あとはあたしらに任せな!」
どこからか女の声がした、ような、気がした。
目を覚ますと、そこは車の中だった。
俺は後部座席に無理矢理寝かされていた。顔の怪我や打撲傷などは手当てされているようだ。
「目を覚ましたかい」真上から女性の声が聞こえた。それは、気を失う寸前に聞いたような気がしたものと同じだった。
「ナイスファイトだったよ、少年」
声の主は、俺を真上から見下ろしながらそう言った。
え、真上から?
そして俺は頭の下にある温かくて柔らかいものの存在に気付いた。
「ひっ、膝枕!?」
驚いて飛び起きようとするも、物凄い力で押さえつけられる。
「おいおい、怪我人なんだから暴れちゃダメじゃないか」
ニコニコと笑いながら尚も力強く俺を押さえてくる女。俺は大人しく膝枕されていることにした。
「あたしは馬車道仁篠。警察関係者だよ。君はクリスくんだね?ナナちゃんから聞いたよ」
「ナナ!あいつは無事なんですか!?」
「ああ、君のおかげで傷一つ付いてなかったよ。もう親御さんと帰っていったよ」
「そ、そうか……良かった……」
「それにしても、あんな化け物と生身でやりあって女の子を守るなんて、君、なかなか見どころあるね」
「え、いや、でもこんなやられてますし、ダセーだけッス……」
「そんなことはないさ。君は磨けば光ると思うんだよねぇ。だからさ」
そういうと馬車道さんは一枚の名刺を取り出した。
「高校卒業したらウチにおいでよ。いっぱい鍛えてあ・げ・る」
そういって渡された名刺には、彼女の名前と電話番号、そして《公安超特殊任務請負係》と手書きの文字が並んでいた。
「何スかこの胡散臭い組織……」
「名前がない組織だから私が勝手に付けた。格好いいだろう?」
「はぁ……」
「連絡待ってるよ、クリス少年。さて!このまま家まで送っていってあげようじゃないか!」
そう言うと馬車道さんは運転席に乗り移り車を発進させた。俺は、何か忘れているような気がしたが、そのまま送ってもらい無事帰宅した。
後日、置いて帰ってしまった彼女からはこっぴどくフラれた。